山中温泉のはじまり やまなかおんせんのはじまり




温泉の誕生がわかる山中温泉縁起絵巻 
               
 天平年間、行基(ぎょうき)が北空に紫雲(しうん)のたなびくのを見て来てみると温泉が湧(わ)いているのを見つけました。湯つぼを作り、紫雲の湯と名付け、長さ九寸の薬師(やくし)像を湯屋に安置させました。その後、平将門の乱でこの湯はおとろえ、薬師像も土に埋もれてしまいました。
 建久(けんきゅう)年間、長谷部信連(はえべのぶつら)が鷹狩に来て、足の折れた一羽の白鷺(しらさぎ)が湯に足を浸しているのを見つけ、行基の話を思い出しました。土の中からは、薬師像が出てきたので、堂を建てて安置させました。今の医王寺です。



医王寺の四聖人達(よんせいじんたち)  
                 
 真言宗高野派準別格本山(こうやはじゅんべっかくほんざん)で、正式には国分山医王寺です。日本薬師の一つで「お薬師さん」と親しまれています。本堂には行基菩薩(ぎょうきぼさつ)、長谷部信連(はせべのぶつら)、蓮如(れんにょ)、芭蕉(ばしょう)の四人の連座像(れんざぞう)が奉られており、この四人を山中の四聖人と呼んでいます。



芭蕉の句から名付けられた総湯「菊の湯」
               
昭和の始めまで旅館には内湯がなく、浴客はすべて、「湯座屋(ゆざや)」と呼ばれた総湯に入っていました。明治になると浴客は急速に増え、新たに「葦(あし)の湯」「白鷺(しらさぎ)の湯」が作られ総湯も芭蕉の句から「菊の湯」と銘々されました 写真は現在の様子です。。





北前船の船頭達と山中節
               
山中温泉には北前船の船頭達も来て、湯治(とうじ)をしたと言われています。「山が赤なる木の葉が落ちるやがて船頭衆がござるやら」にもある通り、一年の苦労を癒(いや)すため、少なくとも一週間、長ければ一ヶ月も滞在しました。船頭達は出稼ぎ中に習い覚えた追分節をお湯の中で唄い、それを外で聞いていた浴衣娘(ユカタベ)達が聞き惚れて山中訛(なまり)でまねをして山中節となりました。昔は“湯の廊下節”とも言われました。
 


明治のころの山中温泉が分かる錦絵(にしきえ)

明治の頃、山中温泉の温泉風景の錦絵がさかんに描(えが)かれました。多色刷りで、錦絵の中に当時の山中温泉の様子や名所を知ることができます。


加賀温泉郷(おんせんきょう)が描かれた温泉電軌沿線鳥瞰図(でんきえんせんちょうかんず)

昭和3年(1928年)に温泉電軌株式会社から発行されたこの鳥瞰図には、山中・山代・片山津・粟津の加賀温泉郷が描かれています。その中での当時の山中温泉の様子は、3棟の湯座屋(ゆざや)があることが分かります。この2年後に現在のような大型の菊の湯ができました。
*(図は山中図書館所蔵)