海の豪商 銭屋五兵衛 うみのごうしょう ぜにやごへい




江戸時代の大野湊神社(おおみなとじんじゃ) 
               
 銭屋五兵衛が活躍した江戸時代の大野湊神社の様子を、屏風絵(びょうぶえ)を使って銭屋五兵衛記念館の荒川館長さんが説明してくれます。大野湊神社は大野郷(旧宮腰・現在の金石町)の湊の守護神として現在も大切にされています。



北前船で栄える宮腰(みやのこし)の様子 
               
 銭屋五兵衛が生まれ育ち活躍した町が、宮腰(現在の金石町)です。五兵衛の時代の宮腰の様子を、屏風絵を使って説明してくれます



五兵衛は銭屋の7代目  
                 
 五兵衛の子孫の方は現在、清水という姓を名乗っています。五兵衛の本名も清水だったそうです。どうして「銭屋」という名前になったのでしょう。家系図を使い、銭屋五兵衛の名前の由来を説明してくれます。









加賀藩御用船北前船「常豊丸」
(かがはんごようせん きたまえふね じょうほうまる)
               
1844年(弘化元年)、1539石積みの北前船加賀藩御用船常豊丸が造られました。商売に加賀藩の力が後ろ立てとなったのです。
1/4の復元模型を使って説明してくれます。









全国34ヶ所に設けられた支店や出張所
               
宮腰に本店を置き、大坂(現在の大阪)、江戸はもちろんのこと、北は北海道松前、函館、南は九州長崎まで全国に大支店や出張所を置きました。銭屋の北前船で扱っていた品物なども説明してくれます。
 








干拓に乗り出した河北潟の埋め立て

五兵衛の一番大きな仕事は河北潟の埋め立て工事を行ったことです。しかし、一族は反対派の陰謀(いんぼう)により無実の罪で捕らえられ、五兵衛は80歳で牢(ろう)で死に、息子は磔(はりつけ)にされ、財産は全て藩に没収(ぼっしゅう)されました。





見事な農地となった現在の河北潟干拓地(かほくがたかんたくち)

現在の河北潟は、国の事業として昭和38年〜61年まで埋め立て工事が行われました。この事業で1,356haの農地が出来上がりました。現在は水田より酪農(らくのう)および野菜などの栽培が行われています。五兵衛の夢が134年後にかなったのです。





*取材協力 石川県銭屋五兵衛記念館