文化と伝統が生きる街づくり 史跡を生かした街づくり




倶利伽羅古戦場 津幡町

「源平盛衰記」は寿永2年(1183)5月11日平維盛の軍と源(木曽)義仲の軍がこの地で戦ったと伝えている。この戦いで義仲は、四・五百頭の牛の角に松明を付け、平家の陣に追い入れる「火牛の計」を用いたとされ、平家軍は地獄谷へ転げ落ち、義仲は上洛の道を進んだ。










倶利伽羅塾 津幡町竹橋地内

北陸道は、古代から官道・五畿七道の一つに数えられ、都に通ずる道として栄えた。江戸時代には加賀藩の参勤交代の道として整備された。建設省による「歴史国道 〜歴史とロマンの体験みちづくり〜」に選ばれ、交流や研修の体験拠点となる倶利迦羅塾の開塾によって、峠一体はますます人が集い、人が和す、一大交流郷に変わろうとしている。









西山遺跡

今から約1800年前、弥生時代の遺跡。稲作に不便な高いところに作られ、急斜面や環濠(からぼり)に囲まれている。環濠の大きさは幅3〜9m、深さ2.5〜5.5m、長さ260mで、掘り出した土砂の量は11tダンプ約200台分に相当すると考えられ、当時としては大変な土木工事であったと想像される。










上山田貝塚

5〜4千年前の縄文中期における日本海岸の代表的貝塚として有名。淡水産だけでなく海水産の貝も混じることから日本海に連なる入り江であった河北潟が砂丘の発達で海から切り離され、次第に現在の潟に移り変わっていった道筋を考えることができよう。









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