初代校長 納富介次郎について

 納富介次郎は本校の設立をはじめとし、四つの工芸、工業高校に校長として勤め、現在の工業教育の基礎を築かれた。納富に関する書物(資料)は余り多くないのが現状で、本校も軸を2本所蔵するのみである。

初代校長 納富 介次郎 のうとみかいじろう 弘化元年〜大正7年 1844〜1918(74歳) 略年譜  
       (明治20年7月〜24年4月初代校長)
弘化元年 佐賀(肥前国小城藩) 藩士 柴田花守の二男として4月3日に生まれる。
       (母親はフチ、生家は佐賀県小城郡小城町中町)
嘉永3年 神道家(皇学家)である父花守に画を習いはじめ、介堂と号する。
万延元年 16歳の時、佐賀藩士納富六左衛門の養嗣子となり、納富に姓をかえてから書画の研究名目で長崎に遊学し、志士たちと交わる。(17歳の時、長崎の木下逸雲らから南宗画を学ぶ)
文久2年 19歳の時、藩主鍋島閑叟に認められ長州の高杉晋作らと上海へ渡航し清王朝を中心とする国際情勢を視察。『上海雑記』を著す。 
明治5年 ウイーン万国博覧会の審査官となる、2ヶ年間にわたり西欧諸国を視察した時に製陶所で石膏型技法を学び、帰国後西欧製陶技術を広めた。
明治9年 米国フィラデルフィア万国博覧会審査官となる。『日本陶器論』を著す。33歳
明治15年 石川県に招かれ工芸品改良指導をする。(4月〜9月)
明治19年 石川県を再訪し巡回指導『漆器審査報告』を著す。(4〜10月)
明治20年 金沢区工業学校を創設 24年4月まで初代校長。
      (東京で病気療養しながら実業教育費を国庫で賄うよう陳情を続ける)
明治27年 富山県工芸学校を創設 30年11月まで初代校長。
明治31年 香川県工芸学校を創設 34年4月まで初代校長。
明治34年 佐賀県工業学校二代校長となる。(38年4月まで校長)
明治36年 佐賀県工業学校の有田分校を独立させる。
大正7年 3月9日東京にて没、享年75歳。墓所は雑司ケ谷霊宛にて眠る。
     (東京雑司ヶ谷墓地1種14号2側、裏に夏目漱石の墓地在り) 

   
     納富介次郎(47才)   納富介次郎胸像 吉田三郎作(本校)

 本校は納富介次郎の作品「軸」を2本所蔵している。いずれも明治20年に描かれたものである。水墨画の「竜の図」軸の右頭に「明治二十年一月三日」と記されており、本校開校を目前にした納富介次郎の意気込みが、題材から伝わってくる。   

  竜の図 軸   右、中央拡大   仲秋山水(ちゅうしゅうさんすい)  右、中央拡大

 「仲秋山水」は、明治20年本校開校当時に描かれたものとして親しまれてきた。こちらの方が一回り大きな軸で、器局の置かれた船を川下の方に浮かべ、煎茶を楽しみ横笛を奏でる人物が描かれている。何とも風流なこの作品は、百十周年記念茶会で煎茶席の掛け軸に使われた。

◎  海外に学んだ理念を、工芸教育で具現化した納富介次郎              
 
 納富介次郎は本校を開校する25年前に上海に渡っている。この上海航路で「富国の道は貿易にあり」と感じるのである。さらに開校14年前の明治6年にはウィーン万国博覧会に日本政府として初参加。納富は技術官として選任され欧州の新知識の調査・収集を行なっている。モリスの「アーツ・アンド・クラフッ運動」が起こっていた時である。1年たらずではあるがフランスのセーブル陶器学校で美術陶器の製法、工芸の機械化などを研究していた(私費)。その旺盛な知識欲と研究心にたいし、セーブルの校長は教授として留まるよう懇請したという。彼には、やがて起こってくるアールヌーボ運動や、近代デザイン運動の流れが見えていたのではないか。 

 上海へ渡る前の介次郎(19才)    ウィーン万博会場の記念写真。介次郎は前列右端

 本校開校の11年前(明治9年)アメリカ・フィラデルフィアで開催される万国博覧会事務次官に再任され、自らのアイデアを画工にさずけ図案を描かせて、全国の著名な工芸家に配布する方法で進めて成功に導いた。介次郎はデザインの重要性を欧米で学び、DESIGNを図案という新しい日本語に訳して指導にあたった。まさに、明治初期における図案家・近代工芸デザイナーといえる。シャガールが生まれ、ロートレック、ゴッホ、ベルナールらが活動し始めた1887年明治20年、彼の思想行動は工芸教育の推進となり、金沢区工業学校の開校から生涯続けることとなった。


◎ 納富介次郎の生誕地を訪ねる

 納富介次郎の偉業として全国に工芸・工業学校を創設し、校長を務めたことはよく知られている。そこで、介次郎の生誕地を訪ねてみる。

 明治34年、佐賀県工業学校二代校長として勤めていたころに副島種臣(ソエジマタネオミ)が納富介次郎に差し出した手紙がある。その宛先は佐賀市水ヶ江町鷹匠小路とある。

         副島種臣からの手紙        副島種臣

 佐賀県立美術館の宇治 章氏から提供された明治後期の佐賀城近辺地図と現在の地図とを照らし合わせることで、明治36年に着任した佐賀県佐賀工業学校が現在の龍谷高等学校の建つ水ヶ江町3丁目だったことや、鷹匠小路から工業学校に通っていたことが濃厚となった。  

            明治後期の佐賀城近辺地図   龍谷高等学校


 現在の佐賀県立工業高等学校は、この地を離れていて龍谷高等学校が建っている。この校地の一角に佐賀県立工業高校跡地と彫られた碑が設けられている。納富介次郎は鷹匠小路から佐賀工業に通っていたとするなら、それは官舎だったのか納富家が元々そこに在ったのかははっきりしないが、下級武士達が住んでいたとされる鷹匠小路へ古い地図と現在の地図とを照らし合わせると、現在の水ヶ江町4丁目あたりとなる。 万延元年、佐賀藩士納富六左衛門の養嗣子となっているので、納富家の所在確認に期待がもたれた。

  養福寺を中心とした水ヶ江町4丁目付近 (上、鷹匠小路と下、養福寺山門)

養福寺(水ヶ江4丁目3)

 目安として養福寺を紹介される。紹介された養福寺の住職田崎大嶺住職によると、生け垣に竹が使われていれば古くからの家であること。それに加え、養福寺の西に納富という家があったとのこと。
              

  養福寺の裏、郵便ポストの左あたりに納富という家があったとされる。

 介次郎の納富とは必ずしも結びつかないとしても鷹匠小路がこの辺りであることがはっきりしてきた。目安として養福寺、NHK宿舎、ふさや酒店がある。佐賀工業時代に介次郎は鷹匠小路から通勤していたことが想像される。 

    鷹匠小路の目安(ふさや酒店)       鷹匠小路の、竹の生け垣

 


◎ 介次郎の生誕地と父 柴田花守

 介次郎の生家は、九州の小京都と言われる小城にあった。小城郡小城町中町に介次郎の父、柴田花守の家敷き跡と記した碑を訪ねてみる。











   柴田花守 しばたはなもり 

文化6年〜明治22年(1809〜1890)
  
 神道家

 柴田花守は文化6年(1809)小城藩士柴田礼助を父とし、小城中町に生まれる。6才から牛島藍皐に画を学ぶ。後に神道不二教を深く信じ、天保2年(1831)23才で長崎の中島広足について神典歌道を学んだ。有名な端唄「春雨」は長崎に遊学した折り、丸山の料亭「花月」で作ったとされる。

 

   柴田家跡地に建つ、小川塗装店        小川さん家族(当主)

 柴田花守が住んでいた屋敷跡には小川塗装店が建っている。小川さんは昭和42年からこの地に移り住んだと言うことで、その当時はその面影が在ったという。


 納富介次郎も通っていたであろう桜岡小学校。その西に小城公園がある。この公園に柴田花守が長崎で読んだ春雨にまつわる碑がある。

      小城公園(桜ヶ丘公園)         柴田花守 春雨の碑


   小城春雨まつり(新聞記事より)

    毎年4月の第一土曜の桜祭りに長崎から芸者さんを招き、舞を奉納するという。(春雨まつり)

 明治2年 柴田花守は小城城藩主直虎の命を受けて小城中町に帰り、使節館において皇典を藩士子弟に講じた。様々な活動の中で、那須高原開墾を無給手弁当で助けたり、明治18年皇居造営に際して人夫3,878人を献じて銀杯を賞賜されている。
 介次郎の兄、柴田礼一については小城町史に、「花守の長男として天保11(1840)年11月17日小城に生まれる。夙に神儒仏の三道を修め、また書画を能くし、和歌に長じていた。明治23年、父の後を継いで神道実行教会第二世館長となり、斯道の拡張に尽瘁した。明治26年9月、ミシガン湖畔レーキフロント公園美術館で世界宗教大会が開催された際に、わが国神道各派を代表して出席し、わが国体と神道との関係より説き起こして、人類平和のため軍備の撤廃、各国の論争審判所設置などを提唱し大喝采を博した。」とある。

 礼一は大正9年7月10日、東京神道実行協会本部で没す。礼一の長男孫太郎(1871〜1939)は、東京帝国大学でドイツ語を学んでおり、陸軍士官学校でドイツ語教授の傍ら神道を修めた。父礼一の没後は管長を世襲。孫太郎の長男道守(1900〜1995)は、昭和14年管長を世襲し、戦災で消失した本庁を大宮に移転させ復興に尽力した。後継者は道守の次男柴田辰彦、現在は辰彦の長男柴田尋之である。

◎介二郎上海渡航に就く
 文久2年(1862年)介次郎19歳の時、佐賀藩主鍋島直正(閑叟)に認められ幕府の艦船「千歳丸」の最年少の従者として、長州の高杉晋作らと共に上海へ渡航したことは如何にして見聞を広めたかを指すのに欠かせない項目である。

 この上海渡航は国際市場の現状調査を目的とし、幕府が行った数少ない積極策の一つである。絶好のチャンスに巡り会ったのは介次郎、高杉晋作の他に佐賀の中牟田倉之助、薩摩の五代才助、尾州の日比野輝寛らで、これら明治維新の先駆者達は国際都市であった上海に2ヶ月間滞在し、大いに見聞を広めながら、それと同時に欧州諸列強の東洋進出政策などを知り日本の危機感を強めた。

「上海渡航前夜」
 高杉晋作が23歳の文久元年(1861)にヨーロッパ渡航の話があったようだが、これは流れて12月23日に世子に幕府視察団に加わり上海の形勢情実を探索するように命じられる。(深刻上海に渡り、形勢情実を探索するよう命じられる。)
  初代「千歳丸」は文久2年4月29日午前4時50分(1862年5月27日)に長崎を出帆し、同5月6日(6月3日)に上海に入港する。
  琉球王国の朝貢や薩摩藩の密貿易、漂流等を除いた日本人の中国訪問は2世紀ぶりであった。日本人乗船者は、正使に勘定吟味役の根立助七郎、副使に支配勘定出役の金子兵吉、御徒目付鍋田三郎右衛門、御普請役格御小人目付塩沢彦次郎、御小人目付犬塚鋭三郎が就いた。これら幕府役人5名の他に長州藩の高杉晋作・佐賀藩の中牟田倉之助、薩摩藩の五代友厚(名目は水夫)、大村藩の峰源助(峰源蔵)などの諸藩士、納富介次郎は最年少の19歳であった。
 他に長崎商人など計51名ないし53名であった。船将(船長)は名目上は沼間平六郎(沼間守一の養父)であったが、実際の操縦(操舵)はイギリス人を中心とした外国人船員16名(イギリス15名・オランダ1名)が担当した。
 乗船した日本人一行は、アロー戦争に敗れて列強に半植民地化された中国の実態と太平天国の乱による混乱や上海租界の繁栄に相反する民衆の生活の貧しさを目にする。そのなかで、海防への強い危機感や中国への軽蔑感などを抱き、納富介次郎は日本が早急に執るべき策を報告書にまとめた。しかし、この報告書は日の目を見なかった。

 今回の渡航目的である貿易に関して、清朝の総理各国事務衙門(そうりかっこくじむがもん、総理衙門)は、清朝の海禁政策のため中国産品の購入は許さなかった。ただ、今回持ち込んだ乾貨や漆器といった物品に関しては今回限りの特例として、現地のオランダ商人を経由して認めるという対応をとった。しかし、太平天国の乱の影響もあって売れ行きは悪く、ましてや貿易拡大について中国側の了解は得られなかった。
 渡航に乗じた諸藩のもくろみの中に海軍強化があり、五代友厚などは列強の商人と取引し、艦船を購入している。

高杉、納富が見た上海の現状
 千歳九が上海に渡航したのは租界建設開始から17年が経過していた。中国の都市であっても中国人の都市ではなく、西洋商館が立ち並ぶコロエアル都市で中国屈指の新興商業都市となり、世界の船が集まる貿易都市となっていた。その繁栄する異様な光景を初めて目にした千歳丸の日本人は驚きの連続であった。納富介次郎は「黄浦中来舶するところの蛮船百余舟。中に軍艦十四五艘も有るべし。且唐船の碇泊する幾千と云ふ数を知らす。帆楢の多きは万頃の麻のごとし」と船舶で混雑する黄浦江の想像を絶する姿に驚いた。

 納富は「上海市坊通路の汚核なること云ふべからず。就中小衡間運のごとき,塵糞堆く足を踏むに処なし。人亦これを掃くふことなし」と記す。租界は比較的綺麗であるが、中国人の街はゴミと糞尿に埋もれ、各家には便所が無く、オマルで排便しても処理をしない有様であった。また、路上や空き地に穴を掘って用をたしたまま放置され、臭気が強烈であった。
 更に納富は「此度の上海行,最も娘苦に堪へざりしは濁水なり。…その上に土人死せる犬馬家羊の類,その外総べて汚稜なるものをこの江に投ずる故,皆岸辺に漂浮せり。且又死人の浮べること多し。この時コレラ病の流行盛んなりしに,難民等は療養を加ふること能はず。或は飢渇に堪へずして死する者甚だ多し。又これを葬することを得ず。故にこの江に投ずるなるべし。定にその景様目も当てられぬ計りなり。尚これに加ふるに,数万の船舶屎尿の不潔あり。井は上海衡中綴か五六所ありと云ふ。然もその濁れること甚だし。故に皆この江水を飲む」と記している。滞在中に3名が死亡(水質とコレラ)し、納富も体調不良となり帰国の船中では瀕死の状態となる。

 上海渡航から8年後の明治3年に開港通商による利得を証明せんとばかり、雑貨や昆布などの見本を上海に持ち込み多くの利益を上げて帰国する。誰もが良しとする結果に対し、「原料の交易は国を問わず、資本力さえあれば誰にでもできる。」ゆえに美術工芸品など日本人の得意とする分野でその商品に独自性を持たせることを重視した。「欧米に対抗するには日本の独創的な工芸品の輸出こそが最大の道であって、資本力に甘んじてはならない。」と説いた介次郎は以後、欧州の工業技術に対処するため工芸教育の推進に没頭していくこととなる。
 明治4年、貿易や外国事情を研究するために横浜に出る。ここでアメリカ人について洋画を学び、油絵(写真14)を描き上げている。納富家に掲げてあったが、残念なことに火災で焼失している。洋画の勉強というのは名目に近く、介次郎を含め渡米を強く望む人々と同様に海を渡るチャンスを掴もうとしていたことが伺える。

◎納富介次郎の妻静子の父森山栄之助(多吉郎)の誕生と通詞の森山家

 森山多吉郎は、長崎のオランダ通詞としては後発である森山家の一人息子として文政3年(1820)6月1日に長崎の馬町(現  町)に生まれた。父は小通詞末席の茂七郎(当時43歳、後に源左衛門)、母は龍(32歳)である。美弥という11歳の姉がいたが、両親の年齢でわかるように待ち望んだ跡取り息子の誕生であった。多吉郎の初名は栄之助で、幕臣となった安政元年頃に多吉郎と改名した。ちなみに諱は憲直、号は茶山という。
 森山多吉郎の父茂七郎は、文政6年(1823)小通詞並天保6年(1835)に年番小通詞となり(58歳)、天保9年に江戸番小通詞とななる。弘化元年(1844)から年番大通詞という重責を担っている。
 ペリーが日本の開国を求めて浦賀に来航したのは嘉永6年(1853)(月日)のことである。長崎から森山多吉郎が浦賀に駆けつけたが、到着する前にペリーは出航しており通詞の任に付けなかった。しかし、ペリーが翌年に再来航した際から和親条約の締結といった外交交渉の任に就くこととなる。主席通訳として条約文の翻訳に及ぶもので、交渉の第一線に立たされるようになる。この任を終えてから森山多吉郎の才能が認められ、幕臣・外国奉行へと登りつめて外交官的な重責を果たしていくのである。

〈当時は通訳にあたる人を「通辞」と呼び、オランダ語の通訳は「オランダ通詞」。中国語の通訳は「唐通事」として使い分けていた。オランダ通詞の階級は大通詞、小通詞、稽古通詞の三階級で構成され、小通詞が実務を担当していた。しかし、外国船の来航が多くなると通詞の増員が図られて、小通詞助、小通詞並、小通詞末席といった階級が新たに設けられた。通例として通詞の家の子が10歳を過ぎると稽古通詞となり、15歳を過ぎるころには小通詞末席になっていた。〉

 文久元年には遣欧使節団に加わり、海を渡って実力を発揮するのである。また、納富介次郎が参画した上海渡航から2年を経ていたが森山多吉郎も同じ意図で上海に赴いている。
 上海渡航についてであるが、納富介次郎は文久2年(1862)、19歳の時に佐賀藩主鍋島直正(閑叟)に認められ、幕府の艦船「千歳丸」の最年少の従者として長州の高杉晋作らと共に上海へ渡航しており、森山多吉郎らの渡航は「健順丸」によるものであった。
 これら2件の上海渡航は国際市場の現状調査と通商を目的としたものであったが、海禁政策を採る清朝から通商はもとより長期滞在を認めないと(返答)回答されている。
 慶応4年(1868)正月5日、鳥羽伏見の戦いで幕府軍は敗れ、大坂城にいた徳川慶喜らは主戦派の幕臣に無断で旗艦「開陽丸」で江戸へ引き揚げてしまう。同月7日、与力となっていた森山多吉郎と柴田貞太郎剛中が運上所の一室で文書を交換し、兵庫開港を国を代表して剛中が締めくくった。その翌8日、王政復古が宣言されたことにより10日、兵庫奉行柴田日向守、組頭森山多吉郎、通詞団の西吉十郎や福地源一郎らがイギリス船(船名)で江戸に逃れた。

◎静子の誕生と納富との出会い
 嘉永3年(1850)、栄之助(30歳)は仲子(16歳)と結婚する。翌年の6月に長女静子が生まれる。明治元年、納富は長崎で病気治療中であった。この頃、静子親子と知り合ったと思われる。
一方、森山多吉郎(栄之助)は明治という時代に入ると明治政府に仕えることはなかった。そして明治4年(1871)3月15日、多吉郎は横浜で急死する。51歳であった。

◎ウィーン万国博覧会と欧州研修
 義父を亡くした納富は明治6年5月1日からオーストリアで開かれたウィーン万国博覧会(11月2日閉会)に審査官として万国博大隈重信総裁、佐野常民副総裁に同行した。納富には審査官の任と陶磁器分野の最新技術習得という伝習生の任があった。(課せられていた)
ヨーロッパ陶磁器業界の先発にセーブル窯、ミントン社などがあり、磁器産地の中でもボヘミア地方は後発であった。しかし、1830年代から優れた量産技術力で注目されており、ウィーン万博でも特に注目された産地の一つであった。
 博覧会の閉会後はゴットフリート・ワグネルの紹介で河原忠次郎、丹山陸郎らとエルボーゲン製陶所で西洋陶磁器製法を学んだ。公費研修を終えた後も私費で1年たらずではあるがフランスのセーブル陶器学校で美術陶器の製法、工芸の機械化などを研修する。

◎納富介次郎巡回指導技師として来県
 明治15年、納富は石川県から陶器、銅器、漆器の改善を依託された(4月〜9月)。着県した納富が目にしたのは同業者間における互いの敵視のもと、わずかな利益を奪い合うことで粗製濫造の弊害をまねいている現状であった。納富は団結利得の具体策として、今でいう組合組織を築くことを提案するが、県側は早急には無理であるとした。しかし、熱心な説得でわずか四ヶ月のうちに組織化にこぎついた。後に農商務省からでる組合準則は、この組合制を基礎として制定された。「九谷焼330年」によると陶業関係だけで江沼郡九谷陶画工同盟会、金沢九谷陶画工同盟会、能美郡で九谷商同盟会、九谷陶画工同盟会などが結成されたとある。
 この頃から国も伝統文化を見直すようになり、輪島漆器の本堅地に沈金・蒔絵等の技法を発展させ、山中漆器も県外市場から海外市場に目を向けるようになる。明治18年、国はこの機会に我が国の漆器産業の実態と、かかえている問題を把握するために「繭絲織物陶漆器共進会」を開催した。共進会の審査官兼報告員に納富がつき、漆器部門だけでも300頁の報告書が作られた。漆掻きの技法から金粉、青貝の製造法、さらには工人の病気にいたるまで調査され、納富が日頃から漆器界の現状にいだいていた批判と構想の一切がはき出されていた。共進会の漆器受賞者数は石川がトップで、明治15年に納富の巡回指導指導が有ったからだという批判が出たようである。金沢の受賞者に三等の澤田次作、四等に五十嵐他次郎、五等に越田宗次郎と鶴田和三郎の名がある。鶴田和三郎は明治22年4月から同24年2月まで、本校きゅう漆科で教鞭をとる。また、在職中の同23年に開催された第3回内国勧業博覧会では有功一等になっている。

◎納富2度目の巡回指導、支那貿易(国策案)を説くが流れる
 明治19年、石川県からの依頼で再び巡回指導につく(4〜10月)。着任と同時に支那への工芸輸出貿易を国策として進めることを提案する。この実現にそなえて息子の磐一や教え子の島田佳矣などに支那語の勉強を既にさせていたいう。この提案は金沢の資産家や実業家には高く評価され大きく進展するかに見えたが、むなしくも県議会で否決されてしまう。しかし、そのような状況下であっても彼の情熱は消えることなく、金沢の描金、金彫、木彫などの工業者に新しい図案を与えて指導に励んだ。
 教え子の島田佳矣は明治元年7月金沢市田町(現天神町)に生まれる。本校の一期生で明治22年1月に本校美術工芸部陶画科から東京美術学校絵画科に進み、同35年に東京美術学校の教授となる。本校卒業生の多くは島田を頼って美術学校に進んでいる。没年月日は現在のところ不明で、本校七十年史に寄稿されていることからすると90余歳で亡くなったと思われる。また、納富の長男磐一は現在の東芝の創設に携わっている。

◎画学校の設立改め、工業学校の設立へ
  納富が2度目の巡回指導で来県した頃は、私立画学校の設立運動により「画学校の設立もやむなし」とする考えが県側にあった。その考えと巡回指導技師として手腕を発揮する納富を本県に引き止めたいという思惑があった。県は任期を終えて去ろうとする納富に、品貿易案は議会で流れたが他に実践したいと思うものがあるならば聞かせて欲しいと申し出た。欧米視察で工業教育の重要性を痛感していた納富は、我が国には工業学校が未だに設立されていないが、その必要性を述べた。納富の考える学校は「学理を講究してこれを応用する技術者を教育する工業学校」であり、画学校の中心に納富を置きたいとする県の考えには大きな差があった。日本初の工業学校の設立を現実のものにするため、納富は区会議員の啓蒙に全力を振るい、明治20年、金沢区に20年度予算総額2,484円をもって金沢区工業学校の創設を可決させた。

 本校の全身である金沢区工業学校を開校した後、次に紹介する三つの工業・工芸学校を開校し、初代校長を務めることとなる。現在、姉妹校交流が行われている学校であり、本格的に行われたのは本校の創立百周年を迎えてからである。

1、富山県工芸学校の創設
 明治27年10月、富山県令(県知事)徳久恒範から工芸学校創設を依託され校長となる。
「常識(普通の知識)の発達と実力の養成」を教育方針として、その年の11月高岡市の商品陳列所を仮校舎として授業を開始した。科学技術を応用した独特な工芸を創ることに意を用いたのは、不評であったシカゴ博(たとえば)からその後の低迷する工芸の建て直しを意識したものであった。
 徳久知事とは以前より主義、国策の上で肝胆相照らしていたことから順調な展開であったが、ここでも介次郎の健康はすぐれず、校長室にはいつも寝具が置かれていた。病弱な介次郎を助けたのは村上九郎作であった。村上は教諭として共に着任していたが、介次郎離任後は校長心得として努めた。心得は校長の任務を代行できるポストである。

2、香川県工芸学校の創設
 明治31年2月 香川県から工芸学校の新設が要望され、高松市八番丁に仮校舎をおき、4月開校の運びとなる。富山県知事であった徳久恒範が香川県の知事として赴任(明治29年)していたことが要望を聞き入れた要因であろう。
 木材彫刻、用器木工、彫金、漆工、描金の五科をおき、修業年限を四ヶ年とした。さらに明治33年には学則を改正し、木工、金工、漆工のそれぞれに「用器」という言葉を使った科目を作った。それは大工場における大量生産システムによる物の生産というのではなく、工業と手工芸のあいだという意味で設けた。
 介次郎は3校目にして全く新しい時代情勢のなかで手工芸の各科に機械力を応用し、新時代にマッチした納富式の授業施設を具体化していく。明治34年4月まで勤めるが、その後を校長心得として和田重太郎が着任し、35年1月までその任に付いた。

3、佐賀県工業学校二代校長となる
  姉妹校交流は行われていないが、介次郎の工業教育に関する考え方と有田工業の誕生する経緯を知るために触れる。
  明治34年4月、佐賀県をはじめとする熱心な招きにより佐賀県工業学校二代校長として業界の期待のもと赴任する。当時の有田には明治13.4年頃のパリ博の実績で盛り上がった活気はすでに見られない現状であり、県当局、業界共に特別の期待が込められていたであろう。佐賀県工業学校では陶業課程の設置が組まれていたが「組合立有田徒弟学校」(旧、勉脩学舎)を吸収して有田分校とするなかで陶業課程をこなしていた。
 はじめに学則の改正にとりかかるが、そのさいに次のような意見を述べている。「全国に数多くの工業学校があるが、学校によって学科に重きをおき、高等教育を受けるのに適した素地を作るものと、実科に重きをおいて直ちに社会に役立つよう養成するものとがある。自分としては後者を重んずるものであるから、規則を改正して専門の科目を専修させるようにしたい」この方針によって次第に生徒たちも専門の技能に深い興味と研究心を持つようになっていった。

4、佐賀県立有田工業学校の設立
 佐賀県工業学校第2代校長に赴任して2年後の明治36年4月この有田分校を独立させ、佐賀県立有田工業学校を創立する。介次郎がパリ大博覧会製造教授として招いたことがあり、有田徒弟学校の教師となっていた寺内信一(確認を要す)が校長心得を命ぜられた。また、佐賀市に開校した私立成美女学校の顧問となり技芸科をおき、女子の技芸を啓発すべく陶画科と刺繍科に分けてその振興を図るなど、佐賀に於いても女子の教育に携わっている。
 指導教師も充実し、明治37年12月米国セントルイス大博覧会出品物が銀牌を受けるほどに、製品の改良発達に好成績を収めていた。しかし、生地、佐賀での教育活動であっても、党利党略によって学校運営に支障をきたすこととなる。佐賀工業学校の廃止か存続かについて、2年間にわたりもめにもめ、学校と官庁、また県と政党間に物議をかもした。明治38年4月1日遂に意を決し、佐賀工業学校校長の任を退く。同年4月10日病気療養のため休職して上京し、再び有田の地を踏むことはなかった。

◎晩年の介次郎(共に歩んだ人々)
 有田を後にした介次郎は晩年を東京で暮らすが、工芸・工業の発展に全力を尽くし続ける。明治39年に私費を投じて図案調製所を設立して一般からの図案要求に応じていった。図案調製所のメンバーは久保田米遷、鈴木華邨、荒木探令、和田重太郎(好山)らであった。
 鈴木華邨はフィラデルフィア博覧会事務局図画係傭となっていることから明治8年には介次郎と面識があると思う。その縁があって明治22年29歳の時、介次郎の招きに答え本校教授として着任。同26年まで絵画、図案意匠を担当している。介次郎は横浜で油絵を学んでいることを取り上げたが、華邨は介次郎から油絵を学んでいる。辞任し帰京したのは同26年10月31日介次郎の辞表提出の10日前のことである。
  デザイン、アイディアをいくつかあげる。例えば、今は電気無くしては生活できないが、この送電用コンクリート電柱のアイディアや救命ボート、火災の煙を避けるための救助マスクなど意外と身近なところでそれは活かされている。

 教育者として最初に着手した金沢や最期の地、故郷の佐賀でも政争渦中に巻き込まれた彼には痛ましさを感じてならない。あまりにも大隈重信と親しすぎたり、その党派の人々と近づきすぎたことが致命傷となったとしても、「不屈の精神力と反骨の気魄を持って自己の信念を貫き通した彼の生涯は見事であった(納富介次郎略伝引用)」
 自らの病身もかえりみず、近代日本の夜明けを切り開きながら一時も休むことなく歩き続けた介次郎であったが、大正7年(1918)3月9日 家人、門下生多数に見守られるなかで、静かに息を引きとった。死因は肺結核、享年75才であった。
 工業教育に一生を捧げた納富介次郎は東京雑司ヶ谷墓地の一種14号2側に夫人の静子(介次郎に先立つ事1年)や子供達と一緒に静かに眠っている。

 納富家の墓、雑司ヶ谷一種14号2側  右、介次郎の妻 静子、中央 磐一

 介次郎の来県、巡回指導は明治5年、15年、19年と回を増すごとに指導の成果も上がってくるが、納富は19年の巡回指導の祭、病弱であっても石川県立病院から指導先が九谷焼の地であっても出向くという献身的な指導を行った。その偉業をたたえ寺井町の九谷神社に「合祀」された。悲報が入って間もない大正7年5月29日のことである。

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