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近代陶芸界の巨匠 板谷 波山 (本名 板谷 嘉七)
板谷波山は明治末から昭和にかけて陶芸界に新風を吹き込んだ陶芸作家である。茨城県真壁郡下館町で醤油醸造業の傍ら雑貨を商う父 増太郎、母宇多の三男として明治5年3月3日生まれる。(三男六女)
父は文人画を描き、三弦や茶の湯を嗜む風流人であった。
昭和28年11月3日、文化勲章を受章する。波山81才の時である。

現在、板谷家の跡地に板谷波山記念館が建てられている。

板谷波山記念館に移築された板谷家の一部 記念館前の波山胸像
(本校所蔵に同じく吉田三郎作)
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現田 市松、波山の片腕。

轆轤成形を担当した生涯のパートナーである。昭和38年1月6日交通事故で亡くなる。享年78才であった。 

波山の片腕、現田 市松
窓下に波山が示した、完成予想図が貼られている。
記念館に移築された夫婦窯

 円形の窯で焚き口が3カ所に設けられている。資金繰りが困難な中、夫婦で汗水流して何年も掛けて築き上げた。

青磁の釉薬が施された香炉と釉薬の吹き付けに用いた鞴(ふいご)

 未焼成の青磁香炉が記念館に展示してある。その香炉は青磁の釉薬が施されているが、その表面は釉薬を吹き付けて施釉された時にできるものと思われる。コンプレッサーの無い時代であるから、鞴(ふいご)を用いたのだろう。(青磁の深い緑は厚く施された釉薬から生まれるので、厚塗りのするために更に吹き掛けしたのだろう)

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波山、陶芸の道に進む道のり

波山は幼少より試みたいと思っていたが、当時は陶芸に関する学校が当時日本にはなく、東京美術学校(現東京芸大)の彫刻科に進む。

 

芸大卒展作品 元禄美人
(東京芸大所蔵)

            

板谷 波山 年譜
明治29年9月 波山24才の時 白井雨山の勧めで本校(当時、石川県工業学校)の彫刻科教諭として赴任する。
明治31年3月 波山26才の時 本校の彫刻科が廃科となるが、陶磁科の担当を進められる。かねてより興味を持っていただけあって作陶研究に没頭する。
明治34年5月石川県工業学校が石川県立工業学校に改称。11月には大日本図案協会が設立され、設立正会員となる。
明治36年石川県立工業学校窯業科を辞職する。(明治32年に陶磁科が窯業科に改称していた)

 本校在職はわずか7年間であった。この間に学んだ陶芸の道で身を起こす決意を固め上京する。多くの人はわずか7年間と言うが、彫刻(彫塑)、造形の基礎は既に出来ていて、しかもデザイン的な研究を日頃から行い、金沢工業高校の教諭の顔ぶれからしても7年間で充分と言える。ただし、独立資金の貧しさを除けば。

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波山に影響を与えたと思われる窯業科の同僚の教師

波山に影響を与えたと思われる窯業科の同僚の教師を紹介します。この方達との交流は本校を離れても続く、それは作品の作風からうかがい知れます。

諏訪  蘇山  (在職期間M20〜29)
北村 弥一郎  (在職期間M30〜34)
竹内 吟秋   (在職期間M27〜40)






前列右より板谷波山、山田忠蔵、
     加藤春平




   明治30年代の中堅教師達

[諏訪 蘇山]  嘉永4年5月25日金沢市馬場6番町に父藩士諏訪重左衛門好方。母ていの子として生まれる。明治20年石川県立工業学校彫刻科助教諭として奉職する。

 初代校長 納富介次郎と同じく、ワグネルに陶画(陶芸一般)を学んでいる。九谷焼の彫刻が得意で、この葡萄透し花瓶は展覧会に出品するために二点焼かれた。本校に一点、もう一点は輪島の南惣家が所蔵している。中国古代の青磁、白高麗を模することも得意で、余技として漆器も製作した。大正11年72才で没す。                                       

葡萄透かし花瓶(諏訪蘇山作)

蘇山の作品とし 菓子鉢 M43・6・18 青磁鳩 S21・3・31青磁花瓶 S21・3・31などを所蔵している。  

[北村 弥一郎]   明治元年 金沢生まれ。工学博士(硬質陶器、磁器)である。本校在職は明治30年から34年と短い期間であったが、竹内吟秋、板谷波山、久保田米遷らと窯業科で教鞭をとっていた。この作品は少しの誤りであっても、必ず再試験を行って次に進む厳格さから生まれ。結晶釉の研究成果は、後に多くの陶芸家たちに影響を与えることとなる。

 作品の平面は別にして、垂直に近い面に粒むらなく結晶を出すことは難しいことです。釉薬のアルミナ分を極力減らし、煤熔剤に亜鉛華等を用いるために、流れやすくなり作品が窯にくっつき、失敗に終わることの多い釉薬です。この作品も少し流れたのでしょう。底(高台)の部分が研ぎ出されています。つかみにくい焼成曲線や、微妙な釉の調合研究が実を結び、後に工学博士となります。結晶釉の難しさゆえ、蔵を潰すとさえ言われます。 

北村 弥一朗  結晶釉花瓶 燿変花瓶(マンガン結晶花瓶)
板谷波山記念館所蔵

 

石川県立工業高等学校在職中の同僚、北村弥一郎らに影響されたと思われる作品である。

[竹内 吟秋] 1831〜1913(82歳)  天保2年加賀市に生まれる。(初名 源三郎)嘉永3年竹内家を継ぐ、明治12年 維新舎を設立して陶画工の養成にあたる。後に、九谷陶器会社の総支配人兼陶工部長となる。シカゴ世界博覧会に平鉢を出品し、名声を博した翌年の明治27年に本校窯業科教諭として奉職。明治40年まで教鞭を執り、明治九谷の発展に尽くした。大正2年82才で亡くなる。赤絵細描・金襴手で人物や背景には暈かしが入った、高さ45pの大作である。一点だけだと形に豊かさが少し欲しくなるが、対にするのに合った形な だろうか。手法からして明治後期に造られたと思われる。(最初に飯田屋八郎右衛門に赤絵を学んでいる)  

竹内 吟秋 赤絵鶴寿老人花瓶
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金沢時代の作品紹介(本校所蔵と板谷波山記念館所蔵作品)

少年少女像は明治30年、本校に赴任して間もない頃の頃の作品で、陶芸に挑戦したてとあってぎこちなさがあると評されることもあるが、面白いことに少年の手の平に蛙がのっている。釉薬の施されていない〆焼きである。童女象も同じく〆焼き。

少年少女像 本校所蔵 (高さ21センチ) 右は、手の平の蛙

 茨城県の板谷波山記念館に、金沢時代の作品が数点展示されている。その中に「芭蕉に蛙」と言う作品があったので紹介します。      

板谷波山記念館所蔵 芭蕉に蛙  芭蕉に蛙の拡大

 

辰砂釉花瓶 板谷波山記念館所蔵

 県工時代の作品 彫りを加えて辰砂釉を施してあるが、焼成状態は良くないこたが思い出の作品として手元に残った要因であろう。不完全な作品は決して人手に渡さなかったというから。 

辰砂釉寸胴花瓶 板谷波山記念館所蔵 

 県工時代の作品 寸胴に削りを目3本が力強く入れ、辰砂釉を施してあるが、焼成状態は良くない。                   

本校所蔵 鴨刻花瓶 1901制

 平成5年に出光美術館学芸員の荒川 正明 氏が波山作であることを立証したものです。本校教員時代に陶芸に関係した実験的作品がかなりの量で造られていますが、その資料の中に含まれていたのです。印もサインも施されてはいないので、それまでは波山作の明言は避けていました。

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代表作と作風の移り変わり

開窯2年目(明治40年)3回目の窯から「磁製金紫文結晶釉花瓶」を得る。内国博覧会で三等賞陶芸家として世に知られ始める。

明治44年 今までの彫刻を施した作品「白磁」から彫りの胎にマット調の釉を施すことを考える。(釉マットヲ用フ 素地全部ヲ薄青ニナシ置キ 其上ニ色土若クハ色ヲ幾層モ重ネ紅花緑葉ノ如ク彫刻ヲ行フ)ほうこう採磁制作への発想がみられる。

大正3年 天皇即位記念東京大正博覧会に審査員を勤める傍ら、「孔雀唐草模様花瓶」「果?唐草文花瓶」を出品。博覧会評に「二品ハ図様ニ東洋風ヲ採リタル構成ナレドモ作風ノ大体ハ西洋ノ風趣ヲ帯ビタルモノニシテ其ノ構図ノ佳良ニ製技ノ精巧ナル斯器類品中ノ優秀ナル逸品ナリ・・・」とあり、新味のある優作だったことが伺える。また、ほうこう採磁が彼の作風として定着する機でもあった。

青磁香炉 本校所蔵(左)と記念館所蔵の氷華磁香炉(右)

香炉の蓋の細工は他の作品を見ても同じである。(同一制作者によるものか)  

柘榴模様花瓶 本校所蔵 

 柘榴(ざくろ)を図案化し、線彫りした上に塩化コバルトを施して青色を求めた。釉薬は透明度を落としてしとやかに焼き上げている。 

未完成彩磁唐花文花瓶(板谷波山記念館所蔵)

 波山の代表的な作風である、彩磁唐花文(さいじからはなもん)花瓶の未完成作品である。彫刻を加えてほぼ彫り終わっているが、窯で焼かれる事なく乾燥状態のままで板谷波山記念館に所蔵されている。 

彫り作業中の波山 (記念館で撮影)

 彫りの素晴らしさを「波山の彫りは一日一寸角」という表現が使われる。少し極端な表現に感じるが、彼の意気込みは一日かかって、わずか3センチ四方を彫り上げるような緻密さである。と言う意味で用いられる。 

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人としての 板谷 波山

(板谷波山の人間性は作品以外にも様々な所で伺える。)

◎ 鳩杖のプレゼント 

  80才を迎えた下館市(波山の郷里)のお年寄りに「道に迷わずにお年寄りが家に帰れるように」と願って杖の頭に鳩を留めて贈った。その数は319本に及ぶ。波山本人が80才になるまでそれは続いた。(昭和8年から28年までの20年間)贈呈されたお年寄りの子孫の多くが今でも家宝として大切にしている。  

 鳩杖の頭部(にぎり)取り付け部に波山の印がある。

 

◎ 戦没者の遺族に白磁香炉を贈る。

 支那事変での戦没者の霊を慰めようと、白磁香炉を下館市の遺族を一件一件訪ねて手渡した。それは昭和13年から贈り始められたもので、人としての心を「忠・勇・義・烈」の刻字で現わした。その香炉は作品や香道の域を超えて遺族に渡り、その数は不明。

 

白磁香炉に刻まれた「忠・勇・義・烈」を拡大

 

◎ 戦没者の遺族に観音像を心の支えになればと贈る。

 昭和13年から続く戦没者遺族への心は、香炉から観音像になり昭和31年まで続き、その数281体におよぶ。

観音像
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郷土に残した育英奨学金制度について

 (板谷波山後援会理事長 (中村美術サロン館長)に聞く。)

経緯と内容 

 波山はこつこつと貯蓄した500万円を差し出して話した。「一千万を目標に貯めてきたが、これだけにしかならなかった。こんな金額だが育英資金として使えるだろうか。」少し不安そうな波山の口調に当時の後援会会長は胸を討たれ、会員に呼掛けて、利子で奨学金制度が運営可能な金額に膨らませて制度が動きだした。波山90才の時である。

この制度は下館一高と下館二高から各一名の四年制大学進学者を奨学生として選考し、応援するものである。この名誉ある奨学生の認定、伝達式は板谷波山記念館で3月25日に執り行なわれている。

波山の生家が一部、道路用地となった。売却金なども奨学制度の資金に加えられて、現在三千万円で運営している。 

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波山(板谷家)の菩提寺 妙西寺を訪ねる。

板谷波山の墓(妙西寺墓地内) かんかん仏と住職

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波山のエピソード

金沢時代・(石川県立工業高等学校七十年誌寄稿文参考) 

 文末より「東京の連中が金沢に住む私をうらやましがっていた。金沢の物価の安さよりも、学校の雰囲気と金沢人の純情さが私をひきつけたのです。金沢人はとっつきは悪いけど、付き合えば付き合うほど良くなるのです。私ほど金沢を好きになった人間はたぶんおらないと思う。東京へ帰るとき、白山が見えなくなるまで窓から眺めていたものです。」(寄稿当時、日本芸術院会員)

 本校赴任当時は十円あれば生活できた。化粧品屋に入り「一番上等の石鹸をください」。店主は「知事さんしか使わない舶来の三円の石鹸でいいですか」。一瞬ドキリとするが、ことわるのは恥と思い買い求めてしまう。

 しゃれたスーツにチョコレート色の短靴、蝶ネクタイといった最先端のダンディファッション。時には元禄時代の服装で町を歩き、菊坂業平とよばれるほどの美男であった。
(金沢の美女達がすっかり参ってしまった)(里中英人 談)

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