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波山に影響を与えたと思われる窯業科の同僚の教師を紹介します。この方達との交流は本校を離れても続く、それは作品の作風からうかがい知れます。
諏訪 蘇山 (在職期間M20〜29)
北村 弥一郎 (在職期間M30〜34)
竹内 吟秋 (在職期間M27〜40)
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後列右より青木外吉、氏家(山田敬中)
前列右より板谷波山、山田忠蔵、
加藤春平
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| 明治30年代の中堅教師達 |
[諏訪 蘇山] 嘉永4年5月25日金沢市馬場6番町に父藩士諏訪重左衛門好方。母ていの子として生まれる。明治20年石川県立工業学校彫刻科助教諭として奉職する。
初代校長 納富介次郎と同じく、ワグネルに陶画(陶芸一般)を学んでいる。九谷焼の彫刻が得意で、この葡萄透し花瓶は展覧会に出品するために二点焼かれた。本校に一点、もう一点は輪島の南惣家が所蔵している。中国古代の青磁、白高麗を模することも得意で、余技として漆器も製作した。大正11年72才で没す。
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| 葡萄透かし花瓶(諏訪蘇山作) |
蘇山の作品とし 菓子鉢 M43・6・18 青磁鳩 S21・3・31青磁花瓶 S21・3・31などを所蔵している。
[北村 弥一郎] 明治元年 金沢生まれ。工学博士(硬質陶器、磁器)である。本校在職は明治30年から34年と短い期間であったが、竹内吟秋、板谷波山、久保田米遷らと窯業科で教鞭をとっていた。この作品は少しの誤りであっても、必ず再試験を行って次に進む厳格さから生まれ。結晶釉の研究成果は、後に多くの陶芸家たちに影響を与えることとなる。
作品の平面は別にして、垂直に近い面に粒むらなく結晶を出すことは難しいことです。釉薬のアルミナ分を極力減らし、煤熔剤に亜鉛華等を用いるために、流れやすくなり作品が窯にくっつき、失敗に終わることの多い釉薬です。この作品も少し流れたのでしょう。底(高台)の部分が研ぎ出されています。つかみにくい焼成曲線や、微妙な釉の調合研究が実を結び、後に工学博士となります。結晶釉の難しさゆえ、蔵を潰すとさえ言われます。
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| 北村 弥一朗 結晶釉花瓶 |
燿変花瓶(マンガン結晶花瓶) 板谷波山記念館所蔵 |
石川県立工業高等学校在職中の同僚、北村弥一郎らに影響されたと思われる作品である。
[竹内 吟秋] 1831〜1913(82歳) 天保2年加賀市に生まれる。(初名 源三郎)嘉永3年竹内家を継ぐ、明治12年 維新舎を設立して陶画工の養成にあたる。後に、九谷陶器会社の総支配人兼陶工部長となる。シカゴ世界博覧会に平鉢を出品し、名声を博した翌年の明治27年に本校窯業科教諭として奉職。明治40年まで教鞭を執り、明治九谷の発展に尽くした。大正2年82才で亡くなる。赤絵細描・金襴手で人物や背景には暈かしが入った、高さ45pの大作である。一点だけだと形に豊かさが少し欲しくなるが、対にするのに合った形な だろうか。手法からして明治後期に造られたと思われる。(最初に飯田屋八郎右衛門に赤絵を学んでいる)
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| 竹内 吟秋 赤絵鶴寿老人花瓶 |
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