鎌倉から来た武士
長谷部信連
かまくらからきたぶし
はせべのぶつら





関東の御家人(ごけにん) 長谷部信連(はせべのぶつら)
               
1147年遠江長村(静岡県)に生まれ、1186年以仁王(もちひとおう)のために戦かったが平家に敗れる。 鎌倉時代、源頼朝(みなもとよりとも)の御家人(ごけにん)となり、能登国大屋荘(おおやのしょう)の地頭(じとう)となり、1190年には、山中町を領地としてもらいました。毎年7月には、これらを記念して長谷部祭りがおこなわれています。



鎌倉幕府の地頭 信連の墓  
                 
輪島市山岸町に、能登国大屋荘(おおやのしょう)の地頭長谷部信連(はせべ のぶつら)の墓があります。鎌倉幕府がまとめた書物、吾妻鏡(あずまかがみ)には、「1218年10月27日、長谷部信連が、能登国大屋荘河原田(かわらだ)で亡くなる。」と書かれています。
 また、輪島に残る古文書にも、江戸時代の1717年に、信連の墓をしっかりと作り直したと記されています。





能登でただ一枚中段(ちゅうだ)の板碑(いたび)
               
輪島市中段町に、関東から伝えられた石の碑、中段の板碑(いたび)があります。板碑とは、鎌倉時代の終わり頃に武士の間で広がった物です
板碑が,造られる目的は、死者の供養(くよう)のためと生きているうちに、家族の死後の安楽(あんらく)です。
高さは129cm、埼玉県の石が使われ、正応(しょうおう)五年(1292)の年号が刻まれ、能登に残る多くの板碑で、ただ一枚の関東系の板碑です。