大伴家持も
お参りした
気多神社
おおとものやかもちもおまいりしたけたじんじゃ




能登一宮 気多神社(けたじんじゃ) 
               
平安時代の延喜式(えんぎしき)という書物の中に,全国の大きなお宮がかかれています。石川県では,加賀に42,能登に43ありました。そのうち,加賀一の宮は白山比盗_社,能登一の宮は気多神社とされていました。
「気多」の名の由来は,穀物に関係する,あるいは橋げた,コタ(アイヌ語で滞在の意)などいろいろな説があります。木(樹木)−気−が多い,ということから霊験(れいけん)あらたかな神社ともいわれています。
 



国司(こくし)大伴家持(おおとものやかもち)の参拝  
                 
奈良時代の歌集「万葉集」には,越中国の国司である大伴家持が詠(よ)んだ次のような歌があります。
「之乎路から 直越え来れば 羽咋の海 朝凪したり 舟楫もがも」
(しおじからただこえくれば はくいのみ あさなぎしたり ふねかじもがも)
(訳:志雄街道からまっすぐ越えて来ると、羽咋の海はいかにも穏やかだ。この海を漕ぎ渡って行く船やかじがあればいいのだが。)
 天平20年(748年)の能登を訪れたとき,富山県の氷見から志雄を通って羽咋へ出てきました。すでに能登でも指折りの神社であった気多神社へ真っ先に向かうのですが,当時まだ干拓されていない広々とした邑知潟(おうちがた)を目の前にして,このような歌を詠んだのでしょう。




政府の命令を伝える加賀郡ぼう示札(かがぐんぼうじさつ)
*「ぼう」は片へんに旁
               
律令(りつりょう)政府からの命令が,国司(こくし)や郡司(ぐんじ)までおよんでいたことがわかる史料があります。津幡町の加茂遺跡(かもいせき)から出土した加賀郡ぼう示札です。このような立て札を港や道ばたで掲示する一方で,文字の読めない農民に対しては,読み上げて伝えることも行われていたことがわかりました。
 また,この史料からは,具体的な農業政策を知ることができます。
(財)石川県埋蔵文化財センターのホームページで詳しく知ることができます。(外部リンクhttp://www.ishikawa-maibun.or.jp/ )


加賀郡ぼう示札の写真(0.7MB)
         (提供:(財)石川県埋蔵文化財センター)


一般の人が入ることのできない「いらずの森」
               
本殿(ほんでん)の後に広がる約3.3ヘクタールの常緑樹(じょうりょくじゅ)の自然林には,樹齢(じゅれい)300年から500年の広葉樹が自生しており,国指定の天然記念物になっています。
 古くから「いらずの森」とよばれ,一般の人々が入るのを禁じられています。宮司が1年に1回,大晦日(おおみそか)に森の中に入り祭儀(さいぎ)を行います。