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七ヶ用水の注水口
七ヶ用水は、白山市白山町付近の手取川右岸から取水して、現在、手取川扇状地の水田約7,000haを灌漑(かんがい)しています。

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富樫用水の水門
七ヶ用水とは、白山市・野々市町・川北町・金沢市を流れる、富樫・郷・中村・山島・大慶寺・中島・新砂川の七つの用水の総称(そうしょう)です。

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「七ヶ用水」取水門の入口
白山市白山町の古宮公園にある現在の七ヶ用水の水門に入ってみましょう。入り口の上には「手取川七個用水組合」と表示されています。(ただし右から書いてありますよ)

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明治時代に作られた水門
水門は明治31年(1898)に水路の測量(そくりょう)が始まり、5年後の明治36年(1903)に完成しました。ここを通ってたくさんの田畑に水を送っています。

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枝権兵衛の生まれた村
権兵衛は、江戸時代の後期、文化6年(1809)、石川郡坂尻村の肝煎(きもいり=村長)の家に生まれた。18才で村の組合がしらに、45才で肝煎となりました。村人たちが水不足などでたびたび困っていることをよく知っていて、何とかならないかといつも考えていました。

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工事の安全を願った古文書
権兵衛たちが用水を掘るときに、工事の安全をねがって白山比盗_社(しらやまひめじんじゃ)に祈願(きがん)したときの古文書です。権兵衛は、安政4年(1858)、富樫用水工事の担当者に任命され、ついで慶応2年(1866)、用水管理の肝煎(きもいり)となっています

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岩をくりぬいた安久涛の淵(あくどのふち)
日照りが続いても水を満々とたたえる場所であったので、水不足の時でも水を取り入れる場所としては最適でした。権兵衛はこのかたい岩の下を240mもくりぬいて水路を付けるという大工事をおこないました。

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用水をのぞむ枝権兵衛
昭和30年(1955)、地方出身の彫刻家山本力吉が制作した枝権兵衛像をもとに、現在、白山市の明光小学校と広陽小学校には七か用水取水口をのぞむところに権兵衛の銅像が建てられている。

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水を取りこむ蛇籠(じゃかご)と川鞍(かわくら)
七ケ用水の取り入れ口が1つになる前はこのような蛇籠や川鞍を使って、手取川に堰(せき)を張り出させて、村ごとの用水に水を取り入れていました。しかし、この堰(せき)は大雨の時には、激流が流れ込んで洪水を起こしたりする原因にもなっていました。

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七ケ用水のことがよくわかる白山管理センターの展示室
白山市白山町の古宮公園にある、手取川七ヶ用水土地改良区白山管理センターでは、七ヶ用水と枝権兵衛についてわかりやすく展示してあります。

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