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八田與一は明治一九年金沢市今町に生まれました。第四高等学校、東京帝大卒業後、與一は人のためになる仕事をしたいと台湾に赴きその地の灌漑事業に取り組みました。
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上司はお金がかかりすぎると反対しましたが、與一は農民のため説得しました。
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しかし大変な難工事のため作業員から不満の声があがりました。
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そのことを妻とよきに相談すると「家族がいっしょに住めるようにしてあげたらどうでしょう」というアドバイスをもらいました。
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與一は現場で働く人と、その家族のために町づくりをしました。
病院や施設だけでなく、お祭りなどまで行い、人の心を和ませました。
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そうして作業員の信頼を得て順調に工事は進みましたが、突然爆発事故が起こってしまい、50人もの貴い犠牲が出たのです。
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與一はもう作業員が工事に協力しないだろうと深く悩みました。
しかし、工事は再開されました。
與一と作業員との厚い信頼が、そうさせたのです。
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與一は、工事に最新機械を導入、10年の歳月と今のお金で5000億円の予算を使い、ダムが完成しました。この工事のおかげで米の収穫は三倍に増えました。
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與一は、台湾での工事を終え、「新しい台湾を自分たちの力で作りなさい」と言い残しフィリピンへ新しいダムを作りに向かいました。
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しかし、昭和17年5月8日與一はアメリカ軍の魚雷を受け亡くなりました。
敗戦後とよき夫人は、日本に帰ることよりも、與一と台湾を見守る事を選び、9月1日に夫の作った烏山頭ダムに身を投げたのです。
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