八田與一物語

今年度の文化祭高等部舞台発表において、私たちは学校のすぐそばにある今町で生まれた「八田與一」氏についての学習発表をしました。
八田與一は技術者で台湾の南部に嘉南大しゅう(土へんに州)という、かんがい事業を行い荒地だった嘉南平野を台湾有数の穀倉地帯にかえました。今も嘉南の農民たちは、その恩を忘れず台湾の歴史の教科書にものっているそうです。
戦前の出来事のため資料の収集に苦労しましたが、「金沢ふるさと偉人館」に見学へ行き、質問をしたり「金沢森本ライオンズクラブ」「八田家」の方々から資料をお借りしてなんとか台本を作り上げました。(ご協力本当にありがとうございました)舞台での工事場面ではパソコン編集による特撮ムービーを上映して効果をあげました。劇は好評で、多くの人から「感激した」との声がよせられました。
今回このWEBページも台湾の養護学校の皆さんと共同制作できないかと考え現在手紙を出して返事を待っているところです。(英文ページ参照
なおこのページのお話は劇の台本をもとにしています。会話など一部フィクションの部分がありますのでご了承ください。今回WEBページ作成にあたり写真提供いただいた八田守様に心から感謝いたします。

「華南平野に架ける虹」


八田與一は明治一九年金沢市今町に生まれました。第四高等学校、東京帝大卒業後、與一は人のためになる仕事をしたいと台湾に赴きその地の灌漑事業に取り組みました。

上司はお金がかかりすぎると反対しましたが、與一は農民のため説得しました

しかし大変な難工事のため作業員から不満の声があがりました。

そのことを妻とよきに相談すると「家族がいっしょに住めるようにしてあげたらどうでしょう」というアドバイスをもらいました。

與一は現場で働く人と、その家族のために町づくりをしました。
病院や施設だけでなく、お祭りなどまで行い、人の心を和ませました。

そうして作業員の信頼を得て順調に工事は進みましたが、突然爆発事故が起こってしまい、50人もの貴い犠牲が出たのです。

與一はもう作業員が工事に協力しないだろうと深く悩みました。
しかし、工事は再開されました。
與一と作業員との厚い信頼が、そうさせたのです。

與一は、工事に最新機械を導入、10年の歳月と今のお金で5000億円の予算を使い、ダムが完成しました。この工事のおかげで米の収穫は三倍に増えました。

與一は、台湾での工事を終え、「新しい台湾を自分たちの力で作りなさい」と言い残しフィリピンへ新しいダムを作りに向かいました。

しかし、昭和17年5月8日與一はアメリカ軍の魚雷を受け亡くなりました。
敗戦後とよき夫人は、日本に帰ることよりも、與一と台湾を見守る事を選び、9月1日に夫の作った烏山頭ダムに身を投げたのです。

八田與一氏について
八田與一氏は明治19年(1886)に石川県河北郡今町村 今の金沢市今町に生まれました。第四高等学校、東京帝国大学土木工学科を経て1910年に帝大を卒業。人のために役立つ仕事がしたいと当時日本の植民地であった台湾に渡り、台湾総督府土木課に勤務しました。このころ台湾の南部にあった嘉南平原は広大な土地がありながら洪水、干ばつ、塩害のため収穫が上がらず住民たちは苦しんでいました。八田氏はこの土地を調査し灌漑事業を計画、これが認められに大正9年嘉南たいしゅう灌漑施設工事が開始されました。関東大震災や経済不況による補助金カット、難工事、特に爆発事故による多くの犠牲など工事は困難を極めましたが、昭和5年ついに全工事が終了。給水が始まると同時に効果的な水利用を図るための「三年輪作給水法」を指導、収穫量を過去の3倍まで高め、土地の価値を当時の1億円にまで引き上げるなどすばらしい事業効果をあげました。昭和17年八田氏はフィリピンでの新しい灌漑事業に赴く途中アメリカの潜水艦に雷撃され56歳の生涯を閉じました。また外代樹夫人は嘉南に疎開していましたが敗戦の半月後の9月1日 夫の作った烏山頭ダムの送水口に身を投げました。それは25年前嘉南大しゅうが起工された日でした。

八田氏がすばらしい人格者であったというエピソードは数多く残されています。関東大震災の後、どうしても工事従事者を減らさなければいけなくなったとき優秀な人から退職させていった(優秀な人はどこでも雇ってもらえるから)。殉工碑(工事の犠牲になった人を弔う碑)には家族を含め日本人、台湾人のわけへだてなく名前を刻み込んだ。台湾の人もその気持ちに答え八田氏の功績をたたえ設置された銅像を軍部の供出命令からも守り抜き元の場所に設置しなおしたそうです。現在も台湾の歴史の教科書に八田氏の業績がのせられているということです。

平成一九年一月六日 日本の技術協力により台湾に高速鉄道が走りました。
八田氏の思いは現代にも生き続けているようです。