七尾語学所とオーズボン ななおごがくしょとおーずぼん




たった半年の語学所 
               
七尾軍艦所(ぐんかんじょ)の中に,明治2年(1869年)七尾語学所がつくられました。金沢藩の優秀な学生30名が,英語や数学などを学びました。しかし,経済的に苦しくなり授業は半年で中止となりました。その後,学生は金沢の藩の学校に移りました。アドレナリンを発見した高峰譲吉(たかみねじょうきち)など,明治の時代に活躍した人たちが多く学びました。



青い目のサムライ先生   
                 
明治2年(1869年)イギリス人オーズボンは,27才のとき外国人教師として七尾にやってきました。七尾語学所で,英語の教師として半年あまり過ごしました。街に外出する服がサムライ姿で「青い目のサムライ」と言われていました。オーズボンは,西洋の文化に目を向け,日本の近代科学の発展のために力を注ぎました。









オーズボンと牛追善塔(うしついぜんとう)
               
オーズボンに牛肉を食べてもらうために役人は牛を買い求めますが,外国人に食べさせる牛を売る農家はありませんでした。うわさも広がってしまったので,役人は遠く離れた奥能登で買い求めました。ところが,牛を売った農民が,牛が殺されて食べられることを聞き,買いもどしに行きましたが牛は生きていませんでじした。農民はあわれに思い,その骨を持ち帰り,七尾の妙観院(みょうかんいん)で牛の供養をしてもらいました。これを聞いたオーズボンは,ひどく驚き,悲しみ,住職に牛の供養に墓を建てるようにお願いしました。