百姓ノ持チタル国
〜加賀一向一揆〜
ひゃくしょうのもちたるくに
〜かがいっこういっき〜




ほんこさん 
               
石川県の各地では、11月末から2月にかけて近親者や近所の人たちが集まり報恩講(ほうおんこう)=「ほんこさん」が行われるところがあります。
お経をあげ、お坊さんの説教を聞いたあとは会食が行われます。その時出される精進料理(お斎)は御膳(ごぜん)にもられ、どのお椀にもごちそうが山盛りに盛りつけられます。
※報恩講・・・真宗門徒の仏事のひとつ




蓮如(れんにょ)と吉崎御坊(よしざきごぼう)  
                 
1471年、福井県境の吉崎に蓮如というお坊さんが来て布教(ふきょう)活動をはじめました。蓮如の「お文」は広く人々の心をとらえ、門徒が急速に増えていき吉崎には二百軒もの多屋が集まりました。門徒の話し合う場「講」が大きくなり「道場」となり、さらに大きくなった「寺」が、蓮如を中心とした組織として北陸各地に広がり力を持つようになりました。
   









政親がこもった高尾城
               
京の都を発端に、全国の諸大名が東軍、西軍にわかれて争われた応仁(おうにん)の乱は加賀にも広がりました。加賀では、南加賀(東軍)の冨樫政親(とがしまさちか)と北加賀(西軍)の冨樫幸千代にわかれて争いました。冨樫政親は本願寺門徒(一向宗)の一揆勢の力もかりて弟、幸千代との戦いに勝利しました。しかし、守護大名となった政親は一向宗の力を恐れて弾圧し、高尾(現在の石川県教育センターの敷地)に城を築きました。










蓮如の息子達が作ったお寺
(二俣本泉寺・波佐谷松岡寺跡、光教寺)
               
加賀一向宗門徒は蓮如の止めるのも聞かず勢力を強め、ついに高尾城の冨樫政親を攻めほろぼしました。その後、加賀三ヵ寺(本泉寺・松岡寺・光教寺)を中心とした本願寺門徒による領国支配を始めました。これが約100年間の「百姓ノ持チタル国」の始まりです。

 








京の本願寺(ほんがんじ)が建てた金沢御坊(かなざわごぼう)

加賀三ヵ寺の支配に不満を持つ国人門徒、坊主は争いを起こし、これらを滅ぼします。その後、本願寺が指導することとなり金沢御坊が建てられました。しかし、全国を統一しようとする織田信長(おだのぶなが)と争うこととなります。







柴田勝家が使った松任城

織田信長の家臣、柴田勝家(しばたかついえ)は金沢御坊を滅ぼし、白山ろく本願寺門徒を攻めますが、負けてしまいます。そこで、鳥越城主鈴木出羽守(でわのかみ)を松任城におびき寄せこれを破り、鳥越城及び白山ろくは制圧(せいあつ)され加賀の一向一揆は終結します。







発掘・復元された鳥越城跡(とりごえじょうあと)

鳥越城は、大日川と手取川に挟まれた鳥越山の山頂(さんちょう)に作られています。この場所は南から加賀に入ってくる交通上重要な場所で、人々やの動きを見るためにととてもながめのよいところに作られています。








鳥越の一向一揆祭り

加賀の一向一揆の最後の攻防がおこなわれた白山ろく鳥越でおこなわれているお祭りです。







加賀一向一揆の動き(石川県立歴史博物館展示)

加賀一向一揆の起こりから、滅亡までの流れが解説とともにまとめて説明されています